ティーバッグのお茶とお菓子

条件に合う菓子であれば良いでしょう。


しかし茶の流行によって製菓も進歩してきたけれど、実際茶に適した菓子の少ないのは、製菓を扱う店に茶味がないからであるともいえます。


明治晩年から沈滞していた茶の湯が、盛んになり、茶席の新築が行なわれて、道具自慢の茶会が催され、懐石を濫用して、茶席が料亭とはき違えられての暴飲美食は、まったくの体を乱して、利休居士の茶の本意に背いたものです。


それがため、せっかくの茶会にしても、茶は飲食の添えであるように思う人があるのは、大きな間違いです。


茶が懐石から軽視されたと同様に、菓子がまた茶から離れた扱いを受けているのですが・・・


それは、昔から茶と切り離すことのできぬ菓子について、亭主があまりにも客に対して心入れが足らず、真の方式からはずれて形式的に出される菓子が多いからです。


菓子一つといえども軽視せず、心入れのある菓子を差し上げるべきです。


たとえティーバッグのお茶を出すとしても、です。


菓子店の菓子でも、凝って手際よく立入り過ぎたものをよく見かけますが、碁に打ち過ぎがあったり、将棋に指し過ぎがあるように、過ぎることは控えねばなりません。


いい菓子、悪い菓子

煎茶は、流儀によって、後から菓子を出すのもあります。


抹茶のように茶の先に菓子を出すティーバッグの煎茶にしても、適当な菓子があって、風味が一段とよくなるのでしょう。


煎茶と羊葵は、昔からつきもののようです。


今、考えると、昔は菓子の種類も少なく、羊葵が最高級の菓子であった関係から、上等の菓子という意味で、羊奨を使ったものでしょうが・・・


しかしかたく作った羊葵をかみしめた味は、あるいは煎茶に向いているかとも思われます。


抹茶の菓子になると、これはその人の好みにもよりますが、まず柔らかく溶解の早いもので、皮と餡との調和よく、形や名などに片寄らないで、素朴な形の物で色も淡彩的に香気の少ないものが適応します。


これと反対に口の中にいつまでも在って溶解しにくく、硬く、皮と飴が分離して同時に溶けず、形も技巧的に過ぎて、濃厚な彩のあるもので、香りの強いものは不適当というべきです。


和菓子の良さ

茶と菓子の挨拶を一方だけにしておくのは、片手落ちでしょう。


やはり双方の挨拶をするのを忘れてはいけません。


亭主が出した菓子に手もつけず持ち帰る人がありますが、これはもっとも失礼な行為といえましょう。


その風味の挨拶もできないし、「遠慮のかたまり」といわれても、まさにそのとおりです。


懐石も同様に一会を催すにはその客とのタイミングをはかり、用意して作ったもので、そのものの味はやはり刻々と変わり、菓子の場合を考えても菓子は生きているようななものです。


それが和菓子の良さなのです。


ティーバッグの番茶は、菓子を食べて、喉をうるおすために飲むのですが、番茶も出花がもっとも美味といわれています。


餅菓子などを食べ、番茶を飲むというのは、あるいは茶と菓子の調和で、ここに一種の味覚を生ずるのではないかと思います。


番茶の菓子を朝生盤といいます。


これはできたてを食べるため、このような名がつけられていて、朝の間に作って、その日の内に早く売り尽くし、時間を永く置かないということにあるらしいですね。


ティーバッグのお茶を一杯・・・

こんにちは。


今日からブログをはじめます。


どうぞよろしくお願いいたします。


さてまずは、ティーバッグのお茶に合う茶菓子と茶請けの話をしたいと思います。


懐石の後濃茶、薄茶ともに、お茶を頂戴した時には客はお茶銘を尋ね、次でお菓子の挨拶をします。


ただ法則どおりの挨拶では物足らぬことで、亭主がいかなる心使いの菓子を使っているか、これは常より食物の味というのを掌え、風味のよしあしなどを研究しておかねばならぬところです。


ただ「結構。美味しいです」と形式的の賞詞だけでは、かえって客自身の無趣味を現わすようなものです。


菓子に限らず懐石、茶道具にしても、ほめるばかりが客の挨拶ではなく、そのものの真価を知って後、心より出る言葉がほんとうの挨拶だと思います。