麩菓子の元祖
『嬉遊笑覧』には、
「麩の焼とは物の名とも聞えぬ呼やうなり、おもふに焼獄といふ物あるから、まがはぬやうにいひるにても有べし、むかしは両度の彼岸の内仏事には是を作りしとそ小麦の粉を水に解、やきなべの上にうすくのべて焼たる片面に味噌をぬり巻きて用う、これ上にみえたるけんぴやきなり。
池田正式が狂歌に
朝貝の花めづらしきふのやきもひなたに置ばねぐさくそなる
女の詞に麩の焼を朝顔といへるは火にてあぶり侍れば、しほむによりて朝顔の花の日にしほるる故に名付そめしといへるは如何、花車なるやうにてさもしき注なるべし只人のつくろはぬ朝の顔のやうなるとの心なるべしといへるは焼きたる面のきよならぬなり」
・・・と出ています。
これによれば、麩の原料である小麦粉を水で解き、焼き鍋の上に薄くのべ、焼いた片面に味噌を塗り、巻いたものということになっています。
したがってこれは味噌松風と呼ばれるものにだいたい似たようなものが想像できますが、利休居士の出生地である堺の近くに船尾という所があって、今でも堺地方ではフノと称しています。
そのフノで焼いた一種のドラ焼のような物です。
後に利休居士も京都に居住した関係で京都の菓子屋にその製法を伝えて焼かせたのでしょうが、もちろん、松屋の専売というわけではなく、どの菓子屋でも焼いたものです。
その時代にはティーバッグでお茶が飲めるなんて誰が想像したでしょうか。